己が信念を貫いた忠義の将

直江 兼続


ここが萌える?
兼続関連のエピソードを紹介

兼続の痛烈な皮肉
伊達政宗への嫌味


◆伊達政宗への嫌味

兼続と政宗。エピソードに伝わる熾烈なるライバル関係!!


上杉家と領地が近かった伊達政宗は兼続にとってライバル的な存在だった。それは、兼続が主君の上杉景勝の供をして大阪城へ入った時の事。広間で政宗が諸大名達を相手に自慢げに自分の持ち物を披露していた。

政宗:珍しい物を見せてやろう!

政宗自慢の持ち物とは、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が鋳造した天正大判貨幣。それを手に入れた政宗は集まった人々に自慢げに回覧して見せている。

政宗:どうだ!!珍しかろう?

皆の反応に政宗は鼻高々。しかし諸大名に続き、兼続がそれを受け取る番になると、兼続はおもむろに扇を広げた。そしてその扇の上に大判を乗せ、まるで羽つきでもするかのように、ポンポンと大判を弾ませたのだ。

政宗:何じゃ山城、構わぬぞ。手にとってゆっくりとご覧あれ

政宗は、諸大名が直接手で触って見ていたものを兼続が扇でうけたのは陪臣の身(秀吉から見ると直臣は上杉景勝であり、兼続は景勝の家臣だから陪臣となる)であるゆえに遠慮しているのだろうと考え、兼続に言った。
これを聞いた兼続は毅然として政宗に言い返す。

兼続:私の手は謙信公の代より軍を指揮する采配を任された手。

政宗:……?

兼続:このような誰の手に渡ったか分からぬような不浄の物を触っては手が汚れ、謙信公にも言い訳が出来ぬゆえ、大判を扇に載せて見ていたのだ。

政宗:な、何だと…っ!!

政宗は、兼続の言葉に顔を真っ赤に赤面させて、憤怒した。この時政宗は、心底兼続の事を憎らしいと思ったに違いない。




また、2人のエピソードはこれだけには止まらず、時は変わり、それは関ヶ原後、主家・上杉家共々大幅な減封となりながらもなんとか家を存続することができた兼続が、江戸城に登城したときのこと。
未だ大坂に豊臣家は健在とはいえ、もはや天下は徳川のものということは誰の目にも明らか。 徳川家の本拠地である江戸城には数多の大名が行き交い、互いが擦れ違うときには挨拶を交し合ったり、それほど親しくない相手でも目礼くらいするのが礼儀というもの。そんな江戸城の廊下で兼続は政宗とすれ違った。
…が、あろうことか兼続、政宗とは目も合わさず、挨拶はおろか、会釈の一つもせずに完全無視を決め込んだ…!

政宗:山城!!陪臣の身でありながらこの私に挨拶もせず素通りとはどういうことだ!?

そのとき政宗は大名の地位にいる存在。 歳こそ兼続の方が上とはいえ、政宗は奥州60万石の大大名、比べて兼続は120万石から30万石に厳封された上杉家の一家老…つまり陪臣でしかない。しかし兼続は、ぴたりと足を止めて一言政宗に言い放った。

兼続:…おや。確かに後姿は間違いなく伊達殿ですな!

政宗:……?

兼続:いや、失礼。今まで貴殿を戦場の後姿しか見たことがなかったので、まさか伊達殿とは思わなかったのです。そうですか、伊達殿はこういうお顔でしたか。

政宗:な、何だと…っ!!

…つまり、兼続は政宗に、戦場で逃げる姿しか見た事が無いと言ってのけたわけで。 あまりにも痛烈な嫌味に、政宗は顔を真っ赤にして憤慨するも、江戸城の廊下という事もあり騒ぎ立てる事が出来ず、ドスドスと大きな足音をたてて帰る事しか出来なかった。

他にも兼続は、関ヶ原の直前に家康を激怒させ、関ヶ原のきっかけの一つ、三成との密謀があったとも言われる、かの有名な嫌味たっぷりな皮肉の手紙「直江状」を書いたり、 家臣が殺してしまった茶坊主の遺族に「故人を生き返らせろ!」としつこく無理なお願いをされ、「じゃあ貴方達が死者を冥界まで迎えに行ってくれ」とその場で遺族を打ち首にした挙句、閻魔大王宛てに「そちらに迎えを出したので、死者をお返し下さい」と手紙を書いてみたり…。
このように、痛烈な嫌味を飛ばすエピソードが多々残っている兼続。誠実で義にあついイメージとは裏腹に、結構、腹黒かったのかも…?(笑)




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