雲の如し天下御免の傾奇者

前田 慶次
(まえだ けいじ)
1533(1541)年〜1605(1612)年
※諸説あり



武将データ




梅鉢紋




菅原道真の子孫という事から使用したと伝わる梅鉢紋。花びらを丸にデフォルメし、星紋と区別がつかなくなる為、中央に鉢と呼ばれる太鼓の鉢のようなものを描いたと言われています。


■幼名 / 宗兵衛
■官位 / ―
■本拠地 / 名古屋→米沢
■居城 / 荒子城


自由に生きた傾奇者
前田慶次の一生は、まさに放浪の人生だったと言えます。慶次は信長の家臣・滝川一族庶子として誕生したと言われていますが、母が前田利久と結婚したことから前田家の養子となりました。
当時は慶次郎利益(利益・利太・利卓・利治)と名乗ったともいわれ、その人生の多くは謎に包まれています。慶次について伝えた史料は少なく、そのどこまでが真実であるかは不明。しかし、彼の破天荒で自由な生き方は今も人々の胸を躍らせています。



ある時、義父・利久は信長に進退を問われ、弟・利家に家督を譲りました。このとき信長は「前田の家、よその者(慶次)に渡すことは無用である。又左衛門(利家)は、忰より近習として仕えとりわけ手柄も多い。この又左衛門に渡せ。」と利久に言ったと伝えられています。この一声のもと、利久・慶次親子は荒子城から放逐されてしまいました。
慶次は浪々の身となりますが、その後1583年頃、利久と共に前田家に戻り、その後利家に従って朝鮮出兵をします。しかし、文禄・慶長の2度にわたる朝鮮への出兵を期に、単身利家のもとを去り、頭を剃って「穀蔵院飄戸斎」と称し、京都に仮の住居を求めて貴賎墨客と交わりを結び、諸大名の邸宅にも遊びに出入りしました。
慶次は、そこで文武の道に己を凌ぐ人物として、互いを認め合った盟友・直江兼続に出会ったのです。 文武にすぐれた兼続と親交、知遇を得て与力となった慶次はその後、上杉家と共に行動する事に。それと共に、越後・信濃・佐渡を領有する謙信以来の武と真義を誇る景勝に接していました。
その上杉景勝の右腕・兼続の人物像にほれ込み、上杉が佐渡の本間を攻める時、助っ人として越後へ。慶次は慶長三年、直江兼続の知遇を得て上杉家に仕官し一千石となりました。慶次の仕官にあたっての条件は「録高は問わない。只自由に勤めさせてもらえばよい」というものだったと伝えれられています。

徳川家康上杉討伐軍を起こした慶長五年。関ヶ原の戦いと時同じくして、奥羽・長谷堂城においても上杉・最上の戦がありました。これは、石田三成と直江兼続の共謀とも言われていますが、天下分け目の関ヶ原の合戦と同じ時、慶次も上杉方でその戦いに参じ、殿として上杉の撤退を助けました。この関ヶ原の戦いで西軍・石田三成は敗北。西軍が敗れたことを知り自害しようとした直江兼続を、慶次が止めて諌めたとされています。

またこの時、出陣の折、慶次は旗指物に「大ふへん者」と大書きし現れたそう。それを見た味方の上杉家臣が大武辺者(武勇にすぐれた者)と理解し「武勇すぐれる上杉にあって思い上がりも甚だしい」ととがめました。これに対して慶次は高笑いし「さても皆の衆は揃って田舎者なり!仮名濁点のつけかたも知らないと見える。我、浪々身長く金に不自由したが故に大不便者と書いたものなり」と言い放ったといわれています。前田慶次の義に厚い所や、遊び心が戦いの中にも見られるようなエピソードは多く、奇行好みの豪傑・前田慶次は武勇にも優れ、その名を轟かせたといいます。豊臣秀吉に「天下御免の傾奇者(かぶきもの)」と言わしめたことも有名ですよね。
そして慶次は関ヶ原の合戦の後、堂森山北東清水のほとりに庵を構え、風花吟月を友として悠々自適の生涯を終えたといわれています。



合戦においては無類の強さを誇り、また優れた教養人でもあった慶次。それと同時に、派手好きで、子供のように悪戯を好み、あくまでも自由に生きた人として伝えられています。
権威に媚びず、多くの武将が家臣にと望む中、条件の良い話もばっさりと断って、盟友兼続と共に戦いました。友の為、体を張って上杉撤退を助けたのは、慶次が人が人として大切にすべきことを知っていたからかもしれません。
兼続とタイプは違えど、同じ""に生きた慶次だからこそ、今も人々に愛され続けているのでしょう。





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