毘沙門天を拝した越後の龍

上杉 謙信
(うえすぎ けんしん)
1530年〜1578年



武将データ




竹に飛び雀




丸の内に雌雄二羽の雀が対い合っている"阿吽"の形が特徴。勧修寺流(藤原氏)の代表紋でもあります。


■幼名 / 虎千代
■官位 / 従五位下、弾正少弼、贈従二位
■本拠地 / 越後・春日山、上越、南魚沼
■居城 / 春日山城・栃尾城


毘沙門天の化身
上杉謙信、またの名を上杉輝虎は享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代・長尾為景四男(または三男とも)・虎千代として春日山城に生まれました。当時の越後国は内乱が激しく、下剋上の時代にあって父・為景は戦を繰り返し、越後守護・上杉房能を自害に追い込み、次いで関東管領・上杉顕定長森原の戦いで討ち取った人物。その跡を継いだ謙信は内乱続きだった越後を統一し、産業を振興して国を繁栄させ、さらに上杉の名前と"関東管領"の地位を継ぎました。15歳(※14歳説もアリ)で初陣を飾ってから、その一生は戦に明け暮れ、卓越した戦術と戦の将率では戦国武将の中でもトップクラス!!とにかく超人的な強さを誇り、また信仰心の深さから自らを毘沙門天の化身として、進行していた為"軍神"と呼ばれました。



義に生き、戦った武将
また謙信は、天下争奪には興味が無く"世の秩序を正すため"という大義のもと、私利私欲に走った戦いは行わなかったと言われています。最大のライバル・武田信玄とは12年間のうちに5回も戦ったかの有名な"川中島の戦い"も、信玄が信濃に勢力を広げ、北信濃を領有する村上義清が謙信に助けを求めた事が発端だったといいます。謙信にとって、信玄は最大の宿敵でしたが、信玄の訃報には謙信も男泣きをしたそう。敵である信玄に塩をおくった、というような逸話などからも見て取れる、ストイックなまでに不条理を嫌い、損得よりも己の義を優先する姿。そんな謙信の残した義の心は、上杉景勝や、直江兼続に受け継がれていきました。70回以上の戦を経験しながらも、敗北はたった数回。大規模な領地拡大こそ果たせなかったものの、その"軍神"とまで呼ばれた謙信は「国を取る事は考えず、ただ目前の一戦を考えるのみ」と、その生涯を戦いに捧げます。 ""の一文字を掲げた軍旗を翻し、白布で頭を包んだ僧衣姿で陣頭を仕切ったとされるその姿は、後世の今もなお、カリスマ的な魅力を放っています。





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