己が信念を貫いた忠義の将

石田 三成
(いしだ みつなり)
1560年〜1600年



武将データ


大一大万大吉


「万民が一人の為、一人が万民の為に尽くすことで太平の世が訪れる」という意味を持つ三成独自の紋。


■幼名 / 佐吉
■官位 / 治部少輔
■本拠地 / 近江
■居城 / 佐和山城


ツンデレ・エリート三成
永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)に誕生。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)頃から小姓として仕えます。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国征伐に赴いたとき、これに従軍しました。天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により死に、次の天下人として秀吉が台頭すると三成も秀吉の側近として次第に台頭していきます。天正11年(1583年)には、賤ヶ岳の戦いに従軍。柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげたと『一柳家記』にある。また太閤検地刀狩りなどを行ったのも三成で、この豊臣政権の政治基盤は、皮肉にも徳川政権の基盤になったと言われています。天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い従五位下治部少輔に叙任されました。豊臣政権下での三成は武功を挙げたわけではなく後方の兵糧・武具などの輜重を担当していたりと、行政官としての働きが目立ちます。四国征伐と同様に九州征伐が比較的短期間で終わったことは、三成という有能な行政官僚が輜重を担当していたからだとされている程。
秀吉に「我に異ならぬ才を持つのは三成だけ」と言わしめた程の頭脳と行政手腕で、三成は現在で言うトコロの所謂"エリート官僚"でした。
また三成は、自らの領内の人々に慕われていたり、島左近ほどの名家臣に仕えられたりと、決して"嫌われ者"ではない様子も伝わっています。三成は京都奉行に任じられた際、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられるも、このときに捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒たちが処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたといいます。



忠義心に厚く、正義感溢れる三成。しかし一方で三成は理知的で傲慢・マジメすぎて融通の利かない性格故に敵を作りやすかった様で…同じく秀吉子飼いの将・加藤清正福島正則とは犬猿の仲。徳川家康を排除すべく挙兵した三成が、諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込みました。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子(細川ガラシャ)には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦を中止します。
有能秘書官ゆえに、秀吉の負の部分を背負う事も多かった三成。毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ家康と戦った関ヶ原では味方の小早川秀秋脇坂安治らに裏切られ、無念の最期を迎えました。
しかし三成の為に病の体で敗北を予感しながらも戦った大谷吉継や、家臣の島左近、盟友・直江兼続ナド、熱い義の心に共鳴した友人達もいた事から、三成はただの嫌われ者ではなかった様に思えます。



嫌われ者の顔と、本当の自分を理解してくれる友の存在。今の世にも通ずる不器用さは、ツンデレを400年前から体現していたかのよう(!)
痛々しいほどにまっすぐで不器用な"義"の心を持った智将。それが石田三成ではないでしょうか?





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