勇猛果敢な土佐の鬼若子

長曾我部 元親
(ちょうそかべ もとちか)
1539年〜1599年



武将データ




七つ片喰
(かたばみ)紋



祖先が頂いた天盃の中にかたばみの葉が一枚浮いていたことが由来といわれる。かたばみ草は繁殖力が旺盛なため、子孫繁栄の願いから紋になったそう。


■幼名 / 弥三郎
■官位 / 土佐守、侍従 ナド
■本拠地 / 土佐
■居城 / 岡豊城


姫若子から鬼若子へ
長宗我部元親は、1539年土佐岡豊(おこう)城で誕生しました。生まれつき色白で柔和で大人しい性格をしていた元親は「姫若子」などと呼ばれていました。初陣を迎えた時期も21歳とやや遅いほうで、槍の使い方を戦場で家臣に聞くというありさまでしたが、いざ戦がはじまると周囲の予想を越えた働きぶりを見せます。戦場に出るや目覚ましい活躍を見せた元親はいつしか「鬼若子」と呼ばれ、勇猛果敢な長曾我部家の嫡男として知られることになりました。しかし初陣で周囲の不安を払拭した元親でしたが、これを見て安堵したのか、父・国親が亡くなってしまいます。 当主となった元親は父の遺業である本山氏との戦いを続行、これに勝利し、土佐、さらに四国統一を目指しました。姫若子と呼ばれていた元親は、土佐一国を統一する大名に成長し、"土佐の出来人"と呼ばれるようになったのです。
しかし織田信長は元親をあまり高く評価しておらず「鳥無き島の蝙蝠」と揶揄したと伝えられています。信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫りますが、元親はこれを拒絶。このため信長と敵対関係になり、四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥りました。この元親に対する信長の政策転換が、彼との外交を担当していた明智光秀の心を苦しめた為に本能寺の変に至ったという説もありますが、信長の死によって、元親は危機を脱しました。
その後、元親は剽悍な一領具足を動員して精力的に勢力拡大を行いました。一領具足とは一揃え(一領)の武具(具足)という意味で、武装農民地侍を運用した半農半兵の兵士達で組織された兵達のこと。その半農半兵という性質上、農繁期の動員は困難で、長期にわたる戦役には耐えられなかったと言われていますが、一領具足は元親の飛躍の原動力になったと言えるでしょう。そして元親はついに、25年の月日をかけて、土佐、さらには四国統一を成し遂げます。



念願成就後の悲劇
1585年(天正13年)、悲願の四国統一を叶えた元親でしたが、直後に、豊臣秀吉の「四国征伐」がはじまりました。 元親は総勢11万を越える秀吉大軍の前に降伏。 秀吉の下に降った元親は、むしろ積極的に秀吉に協力するようになります。 元親の態度は、敗れたからには従うという、彼の潔い性格が表れているのではないでしょうか?
しかし秀吉の命で九州征伐に行った際、後継者として期待していた信親が戦死してしまいます。戸次川の戦いで信親が戦死した事を知り、自分も死のうと思ったが家来に諌められたそう。溺愛し、長曾我部家を任せようと可愛がっていた嫡男・信親を失った後、英雄としての覇気を一気に失い、失意のうちに帰国した元親。その後、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する比江山親興・吉良親実などの家臣は一族だろうと皆殺しにしてしまいます。更に、秀吉から大隅一国を加増するとの話があったがこれを固辞。期待する嫡男を失ったこともあり、領土拡張の野望が無くなった…とも言われています。そして1599年(慶長4年)4月、元親は上洛して間もなく病に倒れ、伏見屋敷で療養していましたが、5月19日に死去。享年61歳。後を四男の盛親が継ぐも、関ヶ原で西軍側につき敗北、非業の死を遂げてしまい、長曾我部の家は滅亡してしまいました。姫若子と呼ばれた幼年時代から、鬼若子と呼ばれ四国統一をするまでになり、輝かしい軌跡を辿りながらも散っていった元親。しかし戦国乱世を駆け抜け、一代で長曾我部の名を世に知らしめた土佐の出来人は、辺境の豪族から成りあがった実力とその魅力で、今もなお多くの人々を魅了し続けています。





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