知略で西国を制した謀将

毛利 元就
(もうり もとなり)
1497年〜1571年



武将データ




一文字に三つ星




この紋は大江氏の家紋であり、毛利氏も大江広元の子季光から出たものなのでこれを用いました。三つ星はオリオン座の中央に輝く三つの星を象ったもので、武名を象徴し、一文字の"一"は数の根元であり、また"かつ"と訓み"敵に勝つ"意を込めたもの。


■幼名 / 松寿丸
■官位 / 従四位上、右馬頭、治部少輔、陸奥守、贈正一位
■本拠地 / 安芸高田(広島)
■居城 / 郡山城(吉田)


知略で中国を制した将
元就は、明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人・毛利弘元福原氏との間に次男として誕生しました。10歳の時に父・弘元を酒毒で亡くし、そのまま多治比猿掛城に住みますが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまいます。その哀れな境遇から"乞食若殿"と貶されていましたが、永正8年(1511年)に元服し、毛利元就を名乗りました。
その後長兄・興元が急死し、家督を継いだ幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見することになります。そして、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣し、この毛利家の命運を賭けた初陣の勝利により、安芸国人・毛利元就の名は、ようやく世間に知られるようになったのでした。しかし甥の毛利幸松丸がわずか9歳で死去。毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が、27歳で家督を継ぎました。


合戦・策略・暗殺・買収・婚姻など、勝利のためにあらゆる手段を用いた戦国時代最高の謀略家として知られる元就。中国地方を一代で統治したことから、"西国随一の戦国大名"とも評されています。特に得意なのが敵将や敵勢力に対する偽報や離間策!!元就の策略の特徴としては、極めて長い時間をかけて周到に、根気強く事を運ぶという点。このため派手さには欠けるものの、周囲の強い反発を買わず着実に地ならしをしつつ、敵を確実に排除・無力化させて安定的に領国を広げました。また元春や隆景の養子縁組など、高度に政治的な策略も多く、政略家としても優れた見識を持っていた元就。本当に、頭のキレる人だったんですね!


大名にまでのし上がった元就は、中国地方制覇を成し遂げた頃、既に老齢であった事・かつての主家である大内・尼子が天下を目指したために勢力を落として滅亡したのを見ていたことから、隆元元春隆景ら息子達には"これ以上版図を拡大するよりも、現在の版図を固めるべく内政に力を注ぐべきだ"と言いました。自分の代での版図拡大がこれ以上は困難であると悟った元就は、現実的かつ保守的な判断に至ったのです。またこの心境の変化には晩年、長子の隆元に先立たれたことも影響していると言われています。
一代で中国地方を統一する事は決して容易でもなければ華やかでもありませんでした。しかし元就は、知略を駆使し、一国人から大国を飲み込み中国を支配し、それでも立ち止まらず九州へも手を伸ばし、71歳を過ぎても子を残し、"暴風雨こそ人生におけるチャンス"とばかりに死の前年まで出陣しました。 戦国乱世を一生をかけてこつこつと、着実に走り抜けた策略家の智将。それが、毛利元就という武将なのではないでしょうか??





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