知略で西国を制した謀将

毛利 元就


ここが萌える?
元就関連のエピソードを紹介

口うるさい説教魔!!?
元就の手紙

今も伝わる三矢の訓え
三本の矢の逸話



◆元就の手紙

元就の手紙は長い&くどい!?


嫡男・隆元に"武略と計略こそが全て"と教えるなど、武人としての印象が強い元就ですが、彼は教養人としても優れていました。そして元就といえば、戦国武将の中で最も手紙を多く書いた人物で有名です。しかしその手紙の内容は…「長くてクドい。」元就は筆まめな人物で、数多くの手紙が残っていますが、戦国の手紙を研究している人物の多くが「元就の手紙は長くてくどい」と語っています(笑)
策略家の智将とされる元就は、非常に愚痴っぽい小言魔な口うるさい男でもあったようで…。明和4年(1767)に毛利家で編纂された毛利氏の訓戒集には、手紙などに残された元就の小言が30近く羅列。隆元ら三兄弟の結束を説いた教訓状の紙幅は2.85メートルにもなり、同じような内容が何度も繰り返し記されています。
また父・毛利弘元、兄・毛利興元が酒の害で早死にしたこともあり、酒は控えていたとされている元就。後に、孫である毛利輝元に対して酒を控えるようといった内容の書状も書いたそう。自身も薬草や薬用菊を漬けた薬酒を造って飲む嗜好があったとされていますが、そんな事まで…という事まで手紙にしていた模様。研究者たちはこういった元就の手紙を「苦労人であったためかもしれないが説教魔となっている」と評していますが、頭の切れる智将から一変、自分の子供などに見せる"小言魔"な一面も、なんだか人間味を感じられて良いんではないかなーと思いますよね(笑)
小言魔元就は、子供のころにこんなエピソードを残しています。 それは元就がまだ元服前に家臣と共に厳島神社へ参拝に行った際の事。

元就:お前たちは、何を祈願した?

元就の質問に家臣は「松寿丸様が安芸の主になられるよう願いました」と答えます。しかしそれに対して元就は強い瞳でこう言いました。

元就:何故天下の主になれるように願わなかったのだ?

すると家臣は「実現不可能な事を祈願しても意味がありますまい。せいぜい中国地方でござろう」と笑います。しかし元就はそんな家臣を一蹴するように言いました。

元就:天下の主になると祈願して、やっと中国地方が取れようというもの。まして最初から安芸一国を目標にしていたのでは、安芸一国すら取れずに終わってしまう。

元就は自らの理想の高さを示し反論しました。家臣たちはこの言葉を聞き、幼い元就に感嘆の声を漏らしたと言います。こうして、元就は大いなる志を胸に、やがて中国の覇者となっていったのでした。

しかし彼は年を経るにつれて、天下獲りよりも家名の保全に腐心するようになりました。それは、彼の生涯の中で、唯一ともいうべき不運な"嫡男・隆元の早世"がきっかけとも言われています。
隆元死去の報告を聞いた際、元就は卒倒し、三日三晩泣き明かしたと伝えられています。その後、元就は「早く死んで隆元のところへ行きたい」と口癖のように言うようになったそうで…。この頃から、その生涯をかけて戦乱の世を駆け抜けた元就の心境に変化が生じ、領国を広げるよりも毛利の家を守れ、という考えに傾倒していったと伝えられています。
一代で中国地方を手にした知謀の将として名高い毛利元就は、長々グダグダとお説教をしたりお節介を焼いたり、愚痴をこぼしたりする、そんな性格だったよう。切れ者謀略家も、身内に見せる顔は一味違ったようです。
そして、その素顔は、人間らしい悲しみを感じられる心や、毛利家存続にかけた想い、家族や身内への愛情を持っていたと言えるのではないでしょうか?







◆三本の矢の逸話

今も安芸高田に残る逸話


今も安芸高田の地に残る、有名な元就の逸話があります。それはある日、元就が三人の息子(隆元・元春・隆景)を呼び寄せた時の事。
元就は息子たちにそれぞれ矢を1本ずつ渡して、それを折るように命じました。息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を隆元に渡して折るように命じます。隆元必死に折ろうとしましたが、簡単には折れません。そこで、元春が受け取って折ろうとしましたが、やはり折ることができませんでした。次の隆景も、同様でした。そこで元就は3人にこう言います。

元就:このように一本一本バラバラであれば、簡単に折ることができる。しかし三本が一つに合わさっていると、簡単には折ることはできない。お前達兄弟も同様、一人一人がバラバラだと滅ぼされるが、毛利のために三人が仲良くまとまれば、滅亡の憂き目に遭うようなことはない。決して仲違いせずに協力して毛利を守れ。

元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけました。これが有名な「三本の矢」の逸話です。この逸話は1557年に元就が3人の子に書いた三子教訓状という文書が元になっているといいます。長兄・隆元に期待をしていた元就ですが、下二人がそれを面白く思わず、いがみ合っていた為、元就はこの文書を書いたそう。3本の矢の逸話は毛利家の家訓をわかりやすく伝える後世に語られた話でもあり、また三子教訓状などを通じ、元就が生前から一族の結束を繰り返し息子たちに説いていたことを伝えています。元就がつねづね子供たちに団結し協力し合うように説いていた訓えは、今も安芸高田の人々に脈々と受け継がれているそうです。



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