義を通し戦乱に散った名将

大谷 吉継
(おおたに よしつぐ)
1559年〜1600年



武将データ




対い蝶紋




奈良時代から好まれた文様で、向かい合うつがいの蝶は和合の象徴とされています。


■幼名 / 桂松(慶松)、紀之介
■官位 / 従五位下、刑部少輔
■本拠地 / 福井県・敦賀
■居城 / 敦賀城


盟友・三成との出会い
豊後臼杵城(大分県臼杵市)主大友宗麟の家臣・大谷盛治の子と伝えられています。大谷家は桓武天皇の血をひく平貞盛の後裔大谷盛胤の子孫とされていますが、宗麟の家臣に大谷盛治という武将はいません。
一説には豊臣秀吉の隠し子とも言われていますがあくまでも俗説。いずれにせよ、吉継の出自については諸説があります。
吉継が生まれる前、両親は子供が出来ないことに嘆き悲しんでいたところに父の吉房八幡神社へ参詣すると「神社の松の実を食べよ」という夢を見たといい、そこで神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれ、そこから幼名が慶松(桂松)となった…という伝説も。吉継の前半生については不明とされるところが多く、残されている資料も多くはありません。
そんな吉継は、若い頃より豊臣秀吉に仕え、石田三成の同僚でもありました。当時16歳の吉継が、秀吉の近習番の仕事をしていた15歳の三成を突然訪問し、初対面の三成に秀吉に仕官できるよう口利きをしてくれないかと頼んだそう。戸惑う三成でしたが、自分にはない豪胆さを吉継に感じ取り彼を気に入ったと言います。そして吉継は、「元服の祝いに2千石やろう」という秀吉の言葉に「2千石の代わりに、大谷を家臣にして下さい」と申し出た三成の推挙により、当時播磨国姫路城主だった秀吉に150石で仕えます。
吉継は、豊臣政権内での最重要ポストである五奉行に次ぐ地位につきました。『名将言行録』でも「吉継、汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人、称して賢人と言ひしとぞ」と高く評価されているほどの人物であったといわれ、三成と共に秀吉の下で活躍を見せます。天正13年(1585年)ついに秀吉が関白に登り詰めると、吉継は刑部少輔に任ぜられ、大谷刑部となりました。



友の為に戦った武将
そんな若いころから有能な武将として人望も厚く、文武に長けた吉継でしたが、27歳ごろ当時伝染病として恐れられていた"業病"という皮膚病(ハンセン病)を患ってしまいます。この病によって皮膚がただれて醜く崩れてしまった吉継は、常に白い布頭巾で顔を隠すように覆っていたそう。醜い姿になってしまった吉継を、誰もが遠ざけ、忌み嫌ったといいます。しかし、三成だけは違いました。三成は、病の吉継を差別することなく、親友として友誼を誓ったとされています。吉継は天正17年(1589年)に越前国の内で敦賀郡・南条郡・今立郡の5万石を与えられ、敦賀城主となりますが、慶長2年(1597年)の頃には病が進行し、吉継は5・6年ほど公に姿を現さなかったと言われています。しかし病に苦しみながらも、一介の大名として一目置かれていた実力は本物だったのではないでしょうか。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老徳川家康に次第に接近します。慶長5年(1600年)家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して、上方の兵を率い上杉討伐軍を起こしました。家康とも懇意であった吉継は討伐軍に参加するために領国の敦賀を立ちますが、途中で三成の居城である佐和山城へと立ち寄ります。吉継はここで三成と家康を仲直りさせようとしますが、三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられてしまいました。これに対して3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得しましたが、三成の固い決意を知り、その熱意にうたれると、負けを予測しながらも息子たちとともに三成の下に馳せ参じ、西軍として関ヶ原の合戦に参戦することとなったのでした。
家康より"自分につくなら領地の保証と加増を約束する"と持ちかけられていましたが、これを蹴り、死を覚悟して三成の味方となった吉継。三成との友情と義を貫く為に立ちあがった関ヶ原では輿に乗って軍を指揮し東軍藤堂高虎京高知両隊を相手に奮戦します。しかし吉継ら西軍は味方・小早川らの裏切りにあい、大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻撃を受け防御の限界を超え、壊滅し、吉継も自害することに…。享年42歳、自害した吉継の首は側近である湯浅隆貞(五助)の手により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはありませんでした。

吉継の辞世の句は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」。これは戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため)棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっています。先立つ者、敗れる者、いずれにしても落ち合う場所は六道の辻…。負けると分かりながらも、友との絆の為に病の身体を引きずり、死地へと参じた吉継は「また会おう」と自刃し、友情に殉じて散りました。
友情意識に疎い戦国時代において吉継の様に義や友情を貫いた者は珍しく、だからこそ、今を生きる私達に大切な何かを教えてくれているのでは?と思ってしまいますよね。吉継の生き様は、人々の胸を熱くさせ、その義の心は今も語り継がれています。





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(C)戦国乙女★史跡NAVI




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