義を通し戦乱に散った名将

大谷 吉継


ここが萌える?
吉継関連のエピソードを紹介

茶会の席で確かめ合った絆
盟友・石田三成

負けを知りながらも戦った
友情の関ヶ原



◆盟友・石田三成

茶会の席で確かめ合った絆


天才的な知略で仕事をこなすものの、自信家で潔癖症、妥協をしないなどの理由から、敵も多く友と呼べる者がいなかった三成。一方、情に厚く、友も多かった吉継。しかし、正反対の性格をした二人は、不思議とウマが合ったそうです。友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、一説には二人が衆道の関係であったとする記録も存在しています。(「校合雑記」※真相は不明)二人は順風満帆に出世を繰り返し、ついに天下人となった秀吉のもとで、"武の吉継"、"知の三成"として、それぞれが自分にない才能を認め合い、天下統一の旗印のもと生死をかけた戦いを続ける中でさらに友情を深めていました。
しかし、吉継はある病を患ってしまいます。吉継が患っていたのはハンセン病。この病は、今でこそ治療が可能な病ですが、戦国時代においては死に至る難病でした。ハンセン病は顔面や四肢の皮膚がただれ、頭髪やまゆ毛が抜け、粘膜や神経をも冒す病気で、吉継も長年この病に苦しめられました。顔の皮膚は醜く崩れ、晩年には目も不自由になり次第に視力が落ち、足も動かず歩行も困難なほどに。吉継は醜くただれた顔を白い布で覆って隠し、常に頭巾を被っていたそう。そんな彼を周りの者は皆遠ざけ、忌み嫌っていくようになります。しかし、三成だけは違いました。2人の間にはこんな有名なエピソードがあります。

ある時秀吉が茶会を開き、そこに吉継と三成は同席していました。当時吉継は、病状も思わしくなく、いつものように白い頭巾で顔を隠して出席をします。諸大名たちは普段から、ハンセン病を患っていた吉継の飲んだ茶碗が回ってくるのを皆避け、嫌がっていました。吉継の後は茶碗に口をつけるフリをして、茶も飲まずに次の人に回していたのです。そういう事が何度もあり、吉継はこの茶会へ出席するのも憂鬱に思っていました。
しかし、そんな茶会である事件が起きてしまいました。
吉継が受け取った茶碗に、吉継の顔から膿(一説には鼻汁)がぽたっと落ちて茶の中に入ってしまったのです。「…碗の中に膿が…」と、その場にいた皆が冷たい視線を向け、どよめきました。

吉継:(…ああ、何という事だ。このような生き恥をかいて私は一体どうしたら…)

普段から自分の後の茶に口をつけることを皆が嫌がっているのを知っていた吉継は、顔面蒼白。その場で身を固くし、何も言う事が出来ずに諸大名達の視線に晒され、茫然自失となってしまいました。
しかしその時、吉継の次の席に座っていた三成が声を上げます。

三成:刑部、早く茶を回してくれ。

そして三成は困惑する諸公の視線の中、何食わぬ顔で膿の入った碗を手にし、それを一気に飲み干してしまいました。

三成:喉が乾いておりましたので全て飲んでしまいました。お代わりをお願いできますか?

ざわつく諸公に平然と言ってのけると、吉継と目が合った三成はふ…と微かに微笑みを向けます。三成以降の人間は、三成の行動に驚きました。そして三成は更に、わざと手をすべらせて茶碗を落としてこう言います。

三成:これは失礼。皆様に転げた茶碗では恐れ多い、お取替えを。

吉継は、諸公の前で恥をかかずに済み、諸大名達は、吉継の使った茶碗、膿の入った茶を飲まずに済んだと安堵しました。

茶会が終わり、吉継は三成に声をかけます。病に冒され、皆に忌み嫌われている自分に対してあのような行動をとってくれた三成に、吉継の目には熱いものがこみあげていました。

吉継:三成…先の事だが…

しかしいつもと同じ、素知らぬ顔の三成は吉継にちらり、と視線を向けてからそっぽを向き、告げます。

三成:何の話だ。さっぱり分からん。

敵を作りやすく、また融通の利かない頑固な性格故に"嫌われ者"であった三成。しかし吉継は、親友に恥をかかすまいと、膿入りの茶を何の躊躇いもなしに飲み干したこの男の想いに、深く感動をしました。

素直ではない三成は、きっとこの先も他者に理解されがたく、敵を作るだろう。

吉継:(しかし私は…死せるその時まで三成と共にあろう。この男の、力となろう…!)

吉継は、この時の三成の友情に溢れた行動に義を感じ、関ヶ原で西軍での参戦を決めたとも言われています。有名なエピソードですが、2人の間に合った友情は確かなもの。三成の友情に殉じて関ヶ原に散った吉継ですが、きっとその時も、三成のあの素知らぬ顔を思い出していたのかもしれません。



◆友情の関ヶ原

負けを知りながらも戦った


秀吉亡き後、その遺言を無視し、無断で事を進め始めた徳川家康。そんな家康に異を唱えた三成は、豊臣家の安泰のため家康を討つことに決めましす。ところが、家康の強さを認めていた吉継は、家臣や家族のことを思えば友の企てに賛成できずにいました。しかし、揺るがない三成の決意を知り、またその三成の友情に応えるため、最終的には家康よりも友のために命を捨てることを選んだのです。こうして、天下分け目の戦い・関ヶ原の合戦が勃発!負けると分かっていながら、親友・三成のために病に苦しむ身体を引きずり、本気で東軍に立ち向かい、友情に殉じた吉継。吉継は三成の傲慢な性格をいさめる役にもなりました。

吉継:三成、お前では他の大名達が味方をしない。豊臣家安泰を願うものすら家康のもとに走らせる。

三成:…何だと?

吉継:三成、これはお前と勝利を思ってこその諫言だ。

三成:吉継……。

吉継:ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜多秀家)を上に立てお前は影に徹すべきだ。

吉継は、三成の為を思い、親友としてこう忠告すると、佐和山城で戦おうとした三成に城を出る事を薦めたり、北陸の大名を勧誘工作で味方につけたりと、西軍の為に尽力したのです。

しかし、そんな想いも虚しく、西軍は味方であった小早川秀秋らに合戦中に裏切られ、吉継も自害に追い込まれてしまいました。小早川の裏切りを予想しながらも、脇坂・朽木・小川・赤座の四隊も次々に裏切り、結果大谷軍は全滅。三成の忠臣・島左近の嫡男も大谷隊にいましたが戦死してしまいました。(左近が三成の為に挙兵した吉継に恩を感じ、自らの嫡男を大谷隊に任せた、という逸話もあります。)
吉継の首は「崩れた醜い顔を東軍に見られたくない」という吉継の言葉により、家臣の湯浅五助によって関ヶ原の地に埋められました。この五助にもエピソードがあり、吉継の首を埋めている所へやってきた藤堂高刑に「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と申し出たそう。高刑は、五助のその言葉に武士の気概を感じ、それを受けて五助の首を取りました。高刑は、家康に吉継の首のありかを問われても決して言わず、五助との"武士の約束"を守ったそうです。
また、家康の加増と領地の約束も蹴り、友情の為戦った吉継は、自害の直前、殆ど見えない目で、小早川のいる松尾山を睨みつけ「人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と呟いたと言われています。それから丁度その年に、小早川は狂死しました。死因については、地元農民と"西軍を裏切り東軍についた"と口論となり、怒った農民に股間をけられて悶死したという説や、三成や吉継の霊や呪いに怯え、精神崩壊し自殺した、などと諸説があります。この関ヶ原における無念と、吉継達の想いは並々ならぬものがあったのは確か。
「吉継達が今の日本を見たらどう思うかな…」と考えながら、関ヶ原古戦場に足を運び、手を合わせてみてはいかがでしょうか?






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