十文字槍で志貫く赤き勇将

真田 幸村
(さなだ ゆきむら)
1567年〜1615年



武将データ




六文銭
(六連銭)



六文銭は仏教において、三途の川の渡し賃。真田の兵は戦場で常に決死の覚悟で臨んだという"不惜身命"の心意気を表している。


■幼名 / 源次郎、弁丸
■官位 / 左衛門佐 ナド
■本拠地 / 信濃・上田
■居城 / 上田城


一族の誇りを胸に!
真田氏の歴史は、一族の礎を築いた真田幸隆にはじまります。幸隆は武田家の武将"武田二十四将"の一人でしたが、その幸隆の才を受け継いだのが、幸村の父・昌幸でした。そして、永禄10年(1567年)、真田昌幸次男として生まれた真田信繁こそが、後の世にいう真田幸村です。ゲームなどでも有名な真田幸村、という名前ですが、これは後世の講談などにより広まったと言われており、歴史的な根拠がない為信繁というのが幸村の本名だと言えます。
三途の川の渡し賃であり、この世への執着を捨てるという意味を持つ六文銭(現代でも六文銭を模して印刷した紙を使用している)を家紋にしていた真田一族は、常に死をも恐れず、謀略に長け、武勇に優れた一族でした。
勇敢なヒーローとして描かれることの多い幸村ですが、兄・信之の言葉によると性格は柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようです。小柄で柔和ながら、大坂冬の陣の後に幸村に脅威を抱いていた家康が破格の条件で寝返りを要求すると、幸村は興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通した…という芯の通った志は、やはり"日本一の兵"と呼ばれるに相応しかったのでは?



武田氏の滅亡後、織田・北条・徳川・上杉・豊臣と次々に主君を変えて生き残ってきた真田氏。幸村は昌幸の名により上杉に送られ、のちに豊臣秀吉に仕えることになります。そして秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、兄・信之は東軍(徳川家康)、幸村と父・昌幸は西軍(石田三成)について戦いました。幸村・昌幸親子は上田城に籠城し、家康の息子・秀忠の大軍を足止めし奮闘しますが、結果は西軍の敗北。兄・信之の助命嘆願により死罪は免れましたが、流罪九度山へ流されます。その後、昌幸が病死した後に、48歳の幸村は決死の覚悟で九度山を脱出し、1614年(慶長19年)、大阪冬の陣において、徳川方の防御の隙を突き、真田丸という出城を築いて大打撃を与えました。
翌年の大坂夏の陣にて、幸村は六文銭の軍旗を翻し、赤い武具を纏った"赤揃え"の姿で火炎の如く家康本陣に迫ります。3度に渡る決死の突撃に、敵陣を大混乱に陥れた幸村。しかしあと一歩というところで届かず、幸村はこの大坂夏の陣で討ち取られ、49歳の生涯を終えたのです。
しかしこの戦での勇猛果敢な戦いぶりに、真田軍の名は不朽のものとなり、武勲にあやかろうとした徳川方の諸将が幸村の首から遺髪をこぞって取り合いお守りにしたと言われるほど。島津家当主・島津忠恒は幸村を「真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)、古よりの物語にもこれなき由」と国許への書簡で幸村を語った。
人質、流罪と不遇の時が長く、活躍の場は決して多くはなかったけれど、幸村の激しくも潔い"本物の武士"としての生き様は、今も鮮烈な印象を残していますよね。
武将人気No.1の真田幸村。うーん、カッコイイです!





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